二重生命線

最近になって

といっても

ここ2年ぐらいか

右手の生命線の内側に

もう1本線が現れた。

 

なにやら

二重生命線らしい。

 

しかも

本家の生命線よりも

長いのである。

 

私の両親の家系は

共に長生きで

そういう遺伝的な要素もあるのだろう。

 

私自身

子供の頃は非常に弱くて

大病はしないものの

すぐに熱が出たり

喘息になったり

頭痛がひどかったりと

体調のいい時が少なかった。

 

成人してからも

生理痛がひどくて

貧血気味で

それに伴って

頻繁に頭痛が起こり

鎮痛薬を常備してないと

とても不安だった。

 

更年期も気づいた時には

終わっていて

今は

猫たちと一緒に寝ることによる腰痛と

季節性のアレルギーが少々ある程度で

ほとんど体の不調がない。

 

まるで天国か

と思えるほどに

体調が良い。

 

理想としては

このまま健康に生きて

ぽっくり逝きたい。

 

さあ

この二重生命線が

どう作用するのか

棺桶に片足突っ込む頃に

判ることだろう。

 

 

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獄と市

若い頃に読んだ

司馬遼太郎さんの「項羽と劉邦

 

その中で

曹参が「獄と市」について述べている。

 

獄とは牢屋 いわゆる刑罰

市とは市場 経済に該当する。

 

獄と市は善悪兼ね備えているので

あまり厳しく取り締まって

人々の逃げ場を奪うようなことをしてはならない。

 

そういう意味合いのことを

曹参が言ったという。

 

なるほどとその時は感心した。

 

曹参の生きた時代は

秦という大国の圧政から

ようやく解放されたのであり

新しく政治を行う側が

再び民たちを抑えれば

それまでの努力も水泡に帰すことは

当然分かっていただろう。

 

だから

曹参は「獄と市は大度を以って容れる」

と言ったのである。

 

翻って現代はどうだろう。

 

先人たちが艱難辛苦して

やっと手にした自由によって

身分や誕生地に囚われることなく

生きることができる。

 

自由に生きることは

好き勝手にできることではない。

 

背後には責任も追従している。

 

大半の人はそんなこと

分かっているのだが

法律の隙間をかいくぐって

違法なことをする輩も多い。

 

大昔の未成熟な社会構造においては

獄と市だけに重きを置いていれば

良かったかもしれない。

 

今は教育現場や介護環境

果ては家庭までもが荒んでいる。

 

人間の良心を失っている人が

増えているということなのだろうか。

 

それとも

罪を犯すことに対して

自分自身に待ったをかけられないのだろうか。

 

法治国家でありながら

弱者が救えない。

 

日本だけではない。

世界中がほぼ同じような状況にある。

 

何千年経っても

人間の社会というのは

進歩と後退を繰り返し

凡そ理想からは

ほど遠い姿で存在するのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

飼育崩壊を憂う

猫や犬などの

多頭飼育崩壊に関する記事を

よく目にするようになった。

 

我が家には

現在3匹の猫がいるが

8年前までは

ゴールデンレトリーバー

飼っていた。

 

はっきり言って

何かあったときに

両手で抱えて逃げられる数が

飼育限度だと考えている。

 

今の日本で

去勢や避妊手術を知らない人は

稀であろう。

 

ブリーダーでもない限り

繁殖をさせないのは

飼育者としての務めだと思う。

 

ブリーダーでも

パピーミルと化した

酷い状態に陥っている業者も

存在しているのだから

一般家庭では尚更である。

 

多頭飼育になった理由は様々だろう。 

 

しかし

トイレも片付けない

ゴハンもやらない

病気になってもほったらかし

死骸もそのまま

 

そんな状況で

何も行動が起こせないのなら

本当に

命を預かる資格はない。

 

小さきものの命を

大事にしない人は

自分に対しても

他人に対しても

寄り添うことのできない人だ。

 

家に入れてやってるから

それでいいというわけではない。

 

拾った

買った

貰った

いずれにしても

愛情を注ぎ

慈しむのが

人間の素晴らしいところである。

 

況してや

虐待するなど

もってのほか

言語道断。

 

人間だって同じ動物である。

他の命を弄べるほど

偉いものではないのだ。

 

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情報を取捨選択する力

情報を見極める力って

一朝一夕で身につくものではない。

 

特に情報過多な現代では

振り回されることも多いだろう。

 

インターネットのニュースなどは

瞬時に世界中に配信され

鮮度としては抜群ではあるが

真贋においては

各自の読み取る能力次第である。

 

やはり新聞を読んで

ある程度

情報の蓄積をしておくのが良いと思う。

 

次にテレビやラジオのニュースか。

 

あまりにも報道機関などの

思惑バイアスがかかっているのは

よろしくないけれど

人間が情報を伝えるということは

多少なりとも主観が入ってしまうものである。

 

それを踏まえて

自分の耳に心地よいチョイスではなく

その情報は正確なのか否かを

自分で考えなければならない。

 

いい大人が情報に振り回されている。

 

他人が煽った記事につられて

懲戒請求などという行動を起こしたり

 

誹謗中傷したり

 

脅迫したり

 

情報を取捨選択するには

日頃から

その背後にある気配を感じとる

嗅覚のような感覚を養うことも必要といえる。

 

表層的な情報に惑わされず

自分の内なる声に耳を傾け

幾度も考察する行為は

決して愚鈍ではないのだ。

 

情報を取捨選択する力は

自分で作り上げていくものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うっかりんな自分

私は実際に診断をされたわけではないが

幼少期からのことを考えると

ADHD気味であると思う。

 

但し

投薬を受けなければならないほど

多動性や衝動性がひどい

というレベルまではいっていないので

普通に生活もできている。

 

うっかり

ぼんやりは

子供の頃から当たり前で

なしてこねぇにできんのじゃろうか

と呆れることも多い。

 

記憶力も弱くて

学生時代

合唱コンクールなどで

歌詞を覚えなくてはいけない時には

歌詞を油性マジックで紙に書き

風呂場の壁に貼って

毎日覚える作業を徹底しなければ

記憶できなかった。

 

メロディーは永続的に記憶できるのに。

 

IQは高い方なのに

勉強は

得意科目と不得意科目の差が大きく

全体的にはそこそこだった。

 

私のいびつな学業成績には

先生がよく首を傾げていた。

 

その時には判らんかったが

 

多分

動作性IQは高いけれど

言語性IQが低いという

いびつな知性パターンなのだと思う。

 

 

しかし

実際のところ

多動性と衝動性のおかげで

意外と部屋を綺麗にすることは

苦にならずに済んでいる。

 

汚部屋の写真を見ると

うえ~~~~~

って思うのだが・・・

 

「ここは自分の物を散らかしてもOK」

というスペースを作っておくことで

そこ以外は片付けようという気持ちになる。

 

とにかく習慣づけることが

うっかりんな私には

一番の防止策であるのだ。 

 

 

 

 

 

小ぬか雨に思う

小ぬか雨

 

こんな言い方

最近しないけれども

小雨の中でも

塵のような

細かい雨のこと。

 

私たち世代には

欧陽菲菲さんの「雨の御堂筋」という

大ヒット曲の歌詞で

なじみ深い。

  

出かける予定がない日に雨だったら

音楽聴きながら

掃除したり

本を読んだり

或いは

猫たちとゴロンゴロンしたり

 

たまには

人生について考えたり。

 

ところで

 

ハラスメント

という言葉が

市民権を得て久しいが

とにかく最近は

ハラスメントに関する事件が多くて

なんともやりきれない気分になる。

 

日大アメフト部の前監督然り

狛江市の市長然り

 

しかし

現代だけではなく

大昔から

あのような人間は存在していたはず。

 

「指導者とは、自己を売って、正義を買った人間だ」

 

このソクラテスの言葉に耳を傾け

己を省みてもらいたいものだ。

 

 

 

 

 

 

幸せってなんだろう?

私にとっての幸せは

かなりハードルが低いので

何でも幸せに感じます。

 

買い物に行って

レジ待ちせずに

すんなりお会計できたとき

 

調剤薬局

順番待ちしてるときに

隣の見知らぬ方と

話が盛り上がったとき

 

車の運転中

横道から出てこようとする車を

入れてあげて

ハザードランプのサンキューサインで

感謝の気持ちを伝えてくれたとき

 

などなど

 

或いは

我が家の猫たちが

ぐっすりんのポーズで

スヤスヤ寝てる姿を見たとき

 

冬の間

枯れたようになっていた

アジサイに新緑の葉っぱが

ニョキニョキ生えてきたとき

 

私の幸せは

どれもこれも

安上りです。^^

 

哲学者の三木清さんは

「幸福は表現的なものである。」

と「人生論ノート」に書いておられます。

 

表現的であることは

周りの人もその空気に触れることが

可能であるということ。

 

幸せのおすそ分けができる

ということですね。

 

どうせ生きるなら

なんでも「幸せだな~」って

感じながらの方が

心がガチガチにならない。

 

受け入れる気持ちと

ほぼ同じで

こういう生き方は

長く続けられると思っています。

 

たまには

カチンとくることもあるけれど

毎日小さな幸せを見つけて

喜んでいます。